-peaceful Asuka- ローカルが教わった飛鳥の魅力(前編)

2018.9.20  明日香村

写真・文=松本昌

 

明日香?飛鳥?

 奈良県のほぼ中央部に位置する明日香村。6世紀ごろ、この地に天皇が宮を置き、中央集権律令国家が始まった。日本という国の最初の首都が置かれたのが、この飛鳥の地。「飛鳥時代」と言われる歴史の舞台であり、その史跡が数多く発掘されている。大陸から伝わった多くの文化や技術が取り入れられ、仏教をはじめ、政治、建築、土木、装飾品の加工などの分野で発展を遂げた時代でもある。

もともと「アスカ」という言葉の語源は、渡来人が安住の地として「安宿アンスク」とした言葉が訛ったなど、諸説ある。「飛鳥(とぶとり)」は「明日香」にかかる枕詞として『万葉集』の句にも登場する。それで「飛鳥」も「アスカ」と読むようになったのでは、という説も。いずれにしても「アスカ」という音が先にあり、「明日香」も「飛鳥」もそれに後から当てた字なのである。

昭和31年、それまであった3つの村が合併して今の「明日香村」が生まれた。合併前の3村のうち一つは「飛鳥村」、寺社などに用いられる文字も「飛鳥」。そのため土地の知名度としては「明日香」よりも「飛鳥」の方が一般的かもしれない。

とにかく、「アスカ」にまつわる疑問として先ず上がるこの「飛鳥」と「明日香」。話は膨らむけれど、結局はっきりとしたことは分からない。そんな名前の由来すら謎に満ちた土地が飛鳥なのだ。

 

 特別でない場所

 

 そんな明日香村に生まれ育ち、明日香村で働く。

正直なところ、それは僕にとって必然というより、成り行きでそうなったという感じもある。だけど、多くのご縁が絡んでいたし、地元への誇りもあり、その道を選んだということもある。

実家は村内でも山手の方、田んぼも畑も、池も山も、川も遊び場で、その中を駆け回った“田舎の子ども”時代を過ごした。

高校も自転車で通えるところだったが、次の進路を選ぶときに僕の頭に浮かんだものは「新しい世界を知りたい」という欲求だった。美術が得意だったことで、芸大を薦められた。その先に刺激的なものが溢れていると期待に胸を膨らませて、芸術大学の門をくぐった。

その頃の自分にとって、飛鳥は“特別な場所”ではなかった。

考古学や日本史にとって極めて重要とされる土地「飛鳥」に全く興味がなかったわけではないが、当時の僕は“ファッション”や“音楽”といった都会的なものに憧れ、一種の反抗心みたいなものがエネルギーの若者にとっては、田舎に住むことは退屈だったのだ。

大学へは自宅から通った。実家に暮らすということは、当然甘えさせてもらう面もあるが、両親や祖母と暮らす煩わしさを感じることも多かった。「チャンスがあれば実家を出たい」という思いもあったが、ただそれを理由に出ようとも思わなかった。そこにある生活に充実感を持つかどうかが肝心なことだったと思うし、そういう意味では友人やご縁に恵まれたと振り返って思う。

というのも、僕は大学で、最後は教授の助手のバイトなんかもして、普通より長く居座り続けていた。全部で9年。そうやって“美術”という業界になんとかしがみつこうと思っていた。それが自分の選ぶ道だと信じていたからだ。

関連するような仕事を探し、一度は美術専門予備校の講師に就きかけたが、それも続けられなかった。特に失うものもなかったし、上京や留学も考えたが、現実的に「働かないと」と思った。何をすれば良いのかわからないような状況だった僕を見かねたのか、ある日父親に声をかけられた。

「友人が民家を改装してカフェをつくろうとしている。何もしないなら手伝いに行ったらどうや?」

大学で専攻したのは「立体造形」。主に木材を用いた制作をした。モノを作ったり空間を演出したり、そういう感性が生かされるかもしれないと父親が紹介してくれたのだった。

そしてこのタイミングが、結果として僕にとっての大きな転機となる。

 

外から来た人 

地方を変えるのは“外から来た人”と言われる。全国的な人口減少、少子高齢化が叫ばれるようになって久しいが、ここ明日香村には移住希望者が後を絶たないそうだ。

“外から来た人”は、その移住先に特別な思いを持っている。

僕が手伝いに行ったそのカフェも、飛鳥への強い憧れを抱き、移住したご夫婦がつくったカフェだった。「自分たちのように、飛鳥が好きで訪れる人たちが行きたいと思う店にしたい」そう語っていた。

僕にとって特別ではない地元が、そうやって誰かが移住するほどに魅力的な場所であるということに対しては、もちろん嬉しい気持ちではあったし、この場所に何が眠っているのかをもっと知る必要があるという思いになった。

床板張りから壁塗り、カウンターテーブルの設置や大きなテーブル、看板の製作など、オープン前の改装から手伝いをした。自分のできることを発揮できる喜びもあった。接客業は経験があったし料理も好きだったこともあり、ご夫婦からのお誘いもいただき、僕はオープニングスタッフとしてそこで働き出した。決して立地の良い場所ではなかったが、徐々に評判が口コミで広がり、このカフェは県内でも人気店として知られるまでなった。

「飛鳥」という場所が店のブランディングに一役買ったという側面は確かにあるかもしれないけれど、これはその店に行くことが目的になる“店のデスティネーション化”の実例になったと言えると思う。以降、当時は数えるほどしかなかった村内のカフェが、その後いくつもオープンした。まさに“外から来た人”が飛鳥を変えたのだ。

僕は、自分の得意なことが仕事につながる喜びを感じていたのだが、それだけでなく、「人が魅力をつくり出して、その魅力が人を惹きつける」現場を体験することができた。そしてそれは、その土地に深い愛着を持ってないとできないことを知った。カフェで働くこと、地元で働くことが、自分にとってこれほどに充実した時間になるとは思ってもみなかった。

僕が大学で過ごし、なんとなくぼんやりと思い描いていた将来は、本当に現実味がなかったと後になって思う。美術という世界は、高貴で美しい業界かもしれないが、見えないものに価値が生まれる、至極都会的であると僕は思う。そしてそれは、飛鳥という地元に向き合えば向き合うほどに遠いものに感じた。そうしていくうちにだんだんと僕の中で張り詰めたものがほどけるような感覚があった。殻が外れて、着地するような。

 

観光地?農村?

明日香村は不思議な場所だ。

観光地のように言われるけれど、実際には観光客相手の商店や宿はほとんどない。「高松塚古墳壁画」の発見により起こった1970年台の考古学ブームで注目されたことが飛鳥の観光の始まりとすれば、まだわずか40年程度しか経っていない。

飛鳥という地は、実はそのほとんどを農村として存在してきた。1981年に犬養毅や松下幸之助の陳情がきっかけとなって制定された「明日香法(古都保存法)」によって、今なお守られている景観も、農村としての姿だ。

 

発掘される飛鳥時代の遺跡は、その当時大陸から伝わった最先端の技術や文化がこの地にあった痕跡であり、ここは言うなれば都心から田舎へと、まるで時間が逆行しているような場所なのだ。遺跡の発掘をきっかけに、周辺を国営公園に整備している場所も多く、それに加えて景観を守る制約もあるため、「飛鳥は美しくのどかな地」としてイメージを持たれているのではないか思う。実際に、旅行というより、周辺に住んでいる方がリラックスしに訪れるということも少なくない。

ただ、冷静に見て、日本のあちこちに存在するの著名な観光地ほどに、旅行者を楽しませるものが揃っているわけでもない。いわゆる絶景、というほどに突出した景色があるわけでもない。痕跡と地中に埋まった歴史をヒントに想像を膨らませるには、たくさんの予習が必要だ。

では飛鳥の魅力とはなんだろうか。

それもやはり“外から来た人”が教えてくれた。今度は移住者ではなくて、沢山の旅行者から。

それについては、また次回。

text 松本 昌