お山の暮らしは細胞が記憶する

吉野町

写真・文=片山文恵KAM INN

ときどきちーちゃんと宿周辺のお山を散歩する。
お互いにお互いを少しずつ気にしながら、ゆっくり歩く。

うちの三毛猫ちーちゃんは、おデブだけれど元々は野良猫だ。ちーちゃんは吉野山の下、脳天さん(のうてんさん:修験道のお社、脳天大神のこと)のそばにあるわたしの姉弟子(あねでし)の家に突然やってきた、小さくてガリガリの子猫だった。うちの宿にやってきてから毎日もりもり食べ、めきめき大きくなり、今では近所のどの猫よりも大きい。

猫とする散歩は、ゆっくり、ゆっくりだ。

一歩一歩、歩を進めながら、その都度気になったものを注意深く確認して進む。ピンと伸びたイネ科の葉、藪の暗がり、下の道から聴こえる物音…ひとつひとつ、しっかり確認する。何も取りこぼさない。急がない。

だからわたしは猫とする散歩が好きだ。
ゆっくりと流れる時間の中で、いろんなものが見えてくる。

 

呼吸

体の動きを止め、口を閉じ、静かに鼻で息をする。
お山を見、聴き、肌で感じる。

じっとその状態をつづけていると、次第に呼吸が深く静かになってゆき、心拍数が落ちてゆくのを感じる。『美しいなぁ』と思いながら、ただただ目の前にあるものを五感で受け取る。

静かな時間。それはわたしにとって『美しいものを体に取り込む儀式』のようなものだ。

吹き抜ける風、生き物の音、植物の微かな香り、日の光、季節の色、空気の湿度、そんな様々なものたちが、少しずつ少しずつ、わたしの中に入ってくる。次第に吐く息が長くなり、最終的に呼吸が止まったのかと思うくらい、静かに、長く吐くようになる。細胞が酸素を欲するタイミングで肺が膨らみ、「スゥ」と空気が入り、そしてまた静かに、長く、とても時間をかけて息を吐く。

ちょうどその頃合いに、目の前のお山と自分が溶け合ってゆくような不思議な感覚がおとずれる。多幸感に包まれるこの時間が好きで、わたしはこの“儀式”をときどき行っている。

止観(しかん:修験道の行者が修行としてやる座禅のような修行)がわたしは苦手なのだが、この呼吸にその苦手を克服するヒントがあるのではないかと思っている。静かに、空間と溶け合うような、深い呼吸。

まだその回答は見つけられていないけれども。
精進である。

 

お山

わたしは山伏だ。
山伏とは、山に伏し修行を積む者。修験道の行者だ。

だからわたしはよくお山に入る。
修行としても入るし、修行でなくてもお山に行きたくなると入る。

わたしがお山に入ると、お山もわたしに入ってくる。

お山は何でも知っていて、わたしに世界の本質を伝える。しかしそれはとても繊細な信号。ぼーっとしすぎても、読み取ろうとし過ぎてもいけない。『人間』としてのフィルターをすっかり外し、お山と混ざり合ったときにはじめて、ほんのりと感じ取ることができる。そんな気がする。

わたしはお山が好きだ。

今年はパンデミックにより俗世の仕事(宿泊業)は大打撃だが、その分たくさんお山に入らせていただいている。うれしい。

お山は厳しく、美しく、儚いさまざまなものを感じさせる不思議な場所だ。

お山の中にはたくさんのものがいるように見えるけれど、きっと目に見えぬものたちの方が多い。目に見えている多くのものも、それは実態ではないのかもしれない。

わたしたち修験行者は、『お山で出会うものはすべて神仏の化身』だと伝えられている。わたしも、そう思う。

 

お堂

毎朝6:20にお堂へゆく。勤行(ごんぎょう)をするために。

わたしが毎朝勤行をしている山中のお堂は、人の生活音がまったくしない。民家と畑の間を通り、暗い針葉樹の林を抜けると、一面に山桜が広がる明るい斜面に出る。そこがお堂のある場所だ。

暗い針葉樹の林道をわたしは『擬死再生の道』と呼んでいて、毎朝わたしは暗い林を抜けるたびに疑似的に死に、生まれ変わっている。たかだか5分ほどの、ほんの少しの時間なのだが、この時間は朝の行(ぎょう:修行の意)に入る前のとても大事な時間だ。

お堂に入ると、ふわりと香(こう)の香りがする。脳がこの香りを認知すると、不思議とやさしい気持ちになる。どれだけ眠たい日でも、この香りを嗅いだ途端に『あぁ、ここは良い場所だな』『今朝も来てよかったな』とふんわり思う。

勤行をはじめる前に、燈明を灯したり線香をつけたり、勤行の準備をする。そして衣帯(えたい:勤行をするときの服装)を整え、姿勢を正して正座した瞬間、気持ちが大きく変化する。水の入った瓶の中に落としたビー玉が、『コツン』と底へ落ちたときのような。

きっと心身が『動』から『静』へ切り替わった瞬間なのだ。

 

勤行は全部で40分間ほど。法螺貝(ほらがい)を立て(※鳴らすこと)、お経を唱え、錫杖(しゃくじょう)を振り、太鼓をたたく。毎日毎日同じことをしているのだが、勤行はとても心地よい。自分の声、内なる音、反響する音、鳴り物の音、お堂の外のお山の音、すべてが混ざり合い、溶け合う。美しい音の混沌の中に身を置くというのは、とても心地よいのだ。

勤行が終わると、スンと耳が良くなる。お山の音が、クリアにお堂とわたしの中を通り抜けてゆく。わたしの細胞ひとつひとつのセンサーが、そこを通り抜ける澄んだ音を記憶する。

そしてわたしは毎日、『今日もいい日ですね』とお堂のご本尊、蔵王権現さんに手を合わせる。

贅沢な朝を毎日いただいている。

 

記憶

記憶は細胞のひとつひとつに蓄積されているのだと思う。

特に五感の記憶(色、香り、味、音、肌感覚)はまちがいなく細胞レベルで記憶している。脳が記憶しているものはごく一部だけだ。

すべての地球上の生き物の中で一番記憶容量が大きい生物は『木』だと、何かで読んだことがある。もちろん木に脳なんてない。しかし彼らは記憶するらしい。人間よりもはるかに多い情報量を。

東北地方のマタギと話をしたとき、マタギは『山の中でいちばん雄弁なのは木だ。大きければ大きいほど、彼らはよくしゃべる。木に触れると木が語りかけてくれる』と言っていた。

地球上の生物の中で、最も大きく成長できる生物は、木だ。木はその大量の細胞の中に記憶を蓄積し、マタギたちは、その木に触れることで木の記憶を読み取っているのだろう。

また、『粘菌』と呼ばれる単細胞生物も記憶をすることがわかっている。彼らの体は小さなたったひとつの細胞だけだ。なのに彼らは記憶し、学習しながら移動していることが学術的に証明されている。

やはり、記憶は細胞そのものに蓄積されるのだ。

原始的な感覚記憶、『色、香り、味、音、肌感覚』。

お山に入るとそのような記憶が細胞から呼び覚まされたり、更に記憶されたりするのだと思う。その感覚記憶は、なかなか人に説明できない。言葉で記憶していないから。感覚の記憶だから。

でも体は、細胞は、まちがいなくそれを理解し、記憶し、学習する。

その積み重ねを、わたしはこれからもずっと続けてゆくのだ。
それがきっと修験行者の修行であり、お山の暮らし。
この世の本質を細胞で理解してゆく、お山の暮らし。

もし皆さまもお山へお越しになることがあれば、細胞ひとつひとつを研ぎ澄まし、一度静かにお山と混ざり合ってみてください。きっと素敵な体験になると思いますよ。

片山 文恵

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岡山生まれ、岡山、新潟、神奈川育ちの元理系女子。2017年に吉野町に移住。現在はゲストハウスの女将であり、金峯山寺の行者。原始的な信仰、修験の生きる地で文化と信仰を継承し、現代語で伝える者として、講演やツアーなどを企画する。小さな生物と読経とカレーがすき。

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