ある朝、妻と娘とチェーンソー

天川村

写真・文=三原惇太郎(ゲストハウス POST INN

早朝の空気の匂いに「久しぶりに朝だなぁ」と思った。

ここ数日というもの深夜まで起きていることが続いていて、朝は日が高く昇ってから起き出すという寝坊生活になっていた。

天川村の山々は淡いコスモス色の朝日を柔らかく浴び、日中よりも少し遠くにあるように見える。鳥たちのさえずりがささやかに響いてくる。とても気持ちがいい。勝負の朝にふさわしい。

倉庫のシャッターを開けて、チェーンソーを取り出した。今日こそ、昨日までの戦いを終わりにしなくてはならない。

一年以上前に村の知り合いが「もう使わないから」と譲ってくれたチェーンソーなのだが、いざ使おうと思ったらエンジンがかからなかった。スターターという、ヒモのような部品を勢いよく引っ張ることで「ブゥウーン」とエンジンがかかるはずなのだが、「ブン」と短く言うだけで、それ以上何も起きないのだ。

「ブン」「ブン」「ブン」と何度も何度もスターターを引くが、チェーンソーは押し黙っている。これが結構疲れるし、やり場のない腹立たしさがこみ上げる。

連日これをやっていると、妻が、首がすわったばかりの娘を抱いてやってきては「お父さん今日もブンブンしてるねぇ」と、まるでのどかな田園風景でも眺めるかのようなスタンスでニコニコしてくる。

さっさと農機具店に持ち込んで助けを求めれば良いことは明白なのだが、YouTubeでチェーンソーの修理動画を見ると「なるほどぉ」と自信が湧いてしまい、可能性のある原因の解消を簡単なものから順番に試みる、ということを、かれこれもう一週間くらい続けている。

可能性のある原因A、B、C、Dくらいまでやっつけてきているのだが、今のところ依然として「ブン」からの進展がみられない。通算千回くらいスターターを引っ張ったかもしれない。こうなるともう意地である。自分で直せないのなら、いっそ新しいのを買ってしまおうか、とすら思った。「この世で結ばれぬのなら、いっそ来世で」といった、愛ゆえの心中に似ている。

そしてついに、これが最後の王手になるだろうと見当をつけていた原因Eの部品が手に入ったので、今日はその部品の交換というわけだ。それが楽しみで、ちょっと早く起きたのだ。

YouTubeで予習はバッチリだったので、部品の交換はスムーズに完了した。そこへ、ちょうど妻が娘を抱いてやってきた。「ブンブン」と冷やかしてきたが、今日はタイミングがいい。いいところが見せられる。妻よ、娘よ、お父さんは「チェーンソーを修理できるお父さん」になろうとしている。

東京からこの山奥へと移り住みそろそろ四年になるが、お父さんは新しいフィールドでも着実に前進している。デスクワーク漬けの東京時代から一変、まるで違うことをやっているが、なんでも勉強、練習である。

エクセルも速いし、チェーンソーも直せるお父さん、なんていうのも、なかなかいいだろう。まだまだ未熟で失敗も多いが、「ブンブン」に関しては今日で終わりだ。その瞬間を、いざお目にかけよう、さあさあご覧あれ。ガソリンを給油するため、意気揚々と燃料キャップを開けた。

「ん?」と気が付いた。

ガソリンがエンジンへと流れてゆくホースが途中で他の部品に引っ掛かり、「く」の字に折れ曲がっている。ラジオペンチでいとも簡単に引っ掛かりは取れたのだが、心に引っ掛かるものがある。

まさか、よもや、いくらなんでもこんなイージーな不具合が原因だったということはなかろう。手抜かりとしてあまりに初歩的すぎる。ガソリンがホースを通っていなかったとしたら、そんな子供でも分かるような不備を見落とし続けながら、お父さんはガソリンが届いていないエンジンを千回も「ブンブン」やっていたというのか。

いやいや、そんなことはあるまい。原因A~E全てを着実に解消したからこそ、初めてエンジンはかかるのだ。どれか一つのピースが欠けてもいけなかった、必要十分な「修理」をお父さんは行ったのだ。ざわつく心、複雑な気持ちで、スターターを握る手に、ぎゅっと力を込めた。

「ブゥゥウウウーーン!!!」

チェーンソーはその長い沈黙を破り、息を吹き返した猛獣のようにけたたましい咆哮をあげた。暴力的なサウンド、アドレナリンに訴えるガソリンの匂い、手に感じる荒々しいバイブレーション。これぞエンジン、いかにも男のマシーンである。

お父さんは正直、興奮した。一瞬心に何かが引っ掛かっていたが、もうどうでもよくなった。いつになったら結果が出るのやら、見通しのつかない試行錯誤を繰り返した末に、突然ブレイクスルーが訪れる瞬間。雨雲を抜け出した飛行機の窓から一気に青空が開けるような爽快感。

「パチパチ~」と妻と娘の拍手喝采。お父さんは正直、嬉しい。チェーンソーの具合を確かめているかのような面持で何度もエンジンをふかす。気持ちのいい朝に早起きをして、チェーンソーが直った。ただそれだけのこと。ただそれだけのご機嫌。

「まぁ、チェーンソーっていうのは物理的にシンプルな構造だから。簡単には壊れないようになってるから」と、努めて「お安い御用」を振る舞い、頼れるお父さんのオーラを放った。

ホースのことは黙っている。

三原 惇太郎

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天川村「ゲストハウス POST INN」オーナー。1991年生まれ。学生時代に海外バックパッカーを経験。東京でのサラリーマン時代に「狩猟をやってみたい」と思ったことがきっかけとなり、2017年に天川村へ移住。

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